行政訴訟判決

行政訴訟判決

  • ◆S53. 1.30 東京高裁 昭和50(行コ)39 判定取消請求控訴等事件(16)

 

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徒の英語の学習測定のものとしては、はなはだ不適当なもの」というのである。
教師の教育内容が適当か不適当かということを判定することは困難な問題である。教育内容は、まず担当の教師の自主的な判断に委ねられるべきものであつて、その内容が適当か不適当かを画一的に判定することはできない。
まして、それが懲戒免職処分の理由とされるということは本来あつてはならないはずである(教育基本法一〇条)。これらのテスト問題が、当時学校内において、被告が主張するような点で問題になつたことがないことは明らかである。これらの問題を出題した意図は、懲戒理由とされてはならないことである。
(八) 最後に、被告の主張する処分理由(九)であるが、これは旧任校である下田南高の教師に頼まれ控訴人は原稿を書いたものである。
控訴人の

思想、考え方の如何によつて免職の理由とされることは、思想の自由、学問の自由を保障した憲法の人権保障に反するものであつて許されないことは当然である。
7 わが国の現在の大きな社会問題の一つは、学校教育のあり方である。
高校教育が青年の思考力を育てるという方向において行われていない。生徒の「何故」「どうして」という懐疑の精神、創造力の涵養ということに全く無関心であるどころか、それを死減させるような方向で行われているのではないかということが指摘されている。
今日の高校教育のあり方は、政治経済の社会現象を断片的に羅列し、その

間のつながりを全く等閑に附し、従つてそのような諸現象が発生し、またそれがどういう方向に行くのかという論理的脈絡を全然無視する傾向があるといわれている。
「教員は全体の奉仕者である」ということは、教員が生徒への接触をふくめてある政治的社会的現象に対して、没主体的であり無関心でなければならないということであるはずはない。もしそのような教員によつて生徒の教育が行われるならば、そういう教員によつて教育された生徒は、それこそ政治的社会的現象を相互の関連なしにまたそれに対する主体的反応もなしに、単に現象を現象としてみるという、恐るべきロボツ

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